仲良し

紅子とはなげはいつも一緒に運動へ出掛ける。
大体前半は紅子がはなげにちょっかい出しながら走るけど後半は逆襲とばかりにはなげが紅子にちょっかいを出す。
歳が近いからか、嬉しそうに遊ぶ。
運動途中ではなげを先に触ると紅子がはなげの後ろにちょっかいを出し、紅子を触るとはなげが紅子の後ろにちょっかいを出す。みていて微笑ましいね。

くろんこと美果も一緒に運動へ出掛けるけれど、お互い枯れているのかまずちょっかいを出すことは無い。けどくろんこが何がしかのスイッチオンになると美果にちょっかい出す。でも美果は相手にしない。くろんこもすぐにちょっかい出すのを止める。

ごっちゃんは最近何気にいい子。発情が来てるからかどうかは判らないけれど、甘えん坊さんになった。運動の途中でしゃがみ込んで話し掛けると股の間に入って来て座る。


桃太郎の眼と顔の成長過程を1本のビデオにしたものを作成中。

「気魄」ということに就いて

出典:社団法人日本犬保存会 会誌 「日本犬」 昭和35年 第6号

「気魄」ということに就いて

日本犬第七巻第八号より転載
  
           山田舜亮

 私は理論的にものを云つたり考えたりするのが、すこぶる下手で、幾度か一度会誌になにか書かして頂きたいと思いつつも折角の貴重な紙面を費やすのもどうかと思い、また、私如き未熟者の出る幕ではないと思い、さし控えていたものであるが、近来頓にやかましいので気分の上で誘われたとでも云おうか、何か書きたい気持ちが油然として涌いて来たので、つい至らぬ筆と採つてみた。

 七月号に平島氏が「いろいろな言葉の解説」をされていたのを見て、「気魄」という項目がない。日本犬には切つても切れぬ言葉であるのにそれがないのが注意を惹き、これが動機というか暇にまかして保存会の以前の大きな型の「日本犬誌」や、以前の「月報」果ては「関西支部報」、「日本犬の検討号」(犬の研究社発行)やら、何かとひつぱり出して来て、気魄という字句を捜してみて、漫然とこれについて書いてみようと思つたのである。何分厚い最中の事ではあるし、沢山の本でもあるのだが、その割合にその字句が使われていないので見落しということもあろうが、これはただ思い付きに始めだしたことであるので、必ず誰れかが締めくくりはして下さる事だろうとしてお見逃し願いたい。

 先づ一番最初に使われているのは、岩橋恒三氏が日本犬第二巻第二号(昭和八年十一月)に「紀州日本犬調査記」を書かれ、その文中に「尾は差尾にして頭部胸部良く気魄又良し」と書かれている。それから昭和九年十一月までは一時(中絶(?)というかたちにて、この十一月の月報に寺岡環氏が斎藤弘氏宛の書簡文中に「日本犬に護衛犬として警戒犬として、敵を噛み倒し得る気魄の鋭さ」と申しておられる。このように気魄という字句をただ形容詞として使用されているのは、それから以後は大分に出て来る。久米清治氏が「山形、福島県境調査記」(日本犬第三巻第二号)中にもあるし、高久兵四郎氏に於いてさえも「日本犬の精神美」(日本犬検討号)にちよいちよいと使っている。寺岡氏には特にこの字句を使われているのは顕著である。最初からだと七篇の文中に使われている。いちいち列挙するのもどうかと思うので書き出しはしないが、展覧会の個評などには随所に出て来る。それだけ気魄という点を重要視されていたものと思われる。

 久米氏は前述の調査記以後日本犬第六巻第二号から連載された「紀州山中調査雑記」中に、気魄に就いても一歩つき進んで強調されている。斎藤弘氏は二篇。一つは「史前犬骨計測旅行」日本犬第五巻第六号)中に里田氏の山犬クマ号を評して「此の犬を見ずして日本犬の気魄を語るなかれ」と云つておられるし、「第一回九州総支部展報告」中には、犬郎号、丸号、藤五郎第の三頭の個評中にこの気魄という字句が使われている。里田原三氏は「第四回展点描」(関西支部報昭和十年十二月号)中に「結局小型は気魄と軽快さを重視すべきものか」と云われていて、これ以外大分文書は書かれているが、この字句はあまり使用されていないようである。京野兵右衛門氏も不思議と使われていないらしく、わづかに「第三回関西総支部展審査報告」(日本犬第六巻第七号)中「妊娠中の故か顔貌気魄を欠いでいた」(コマ号個評中)というに使われているのみであるが、この字句に変るべき「悍威」「悍味」「精悍味」というのは度々見受ける。渡辺肇氏も「気魄」という字句ではなしに京野氏と同じような字句のみ使用されていた。私と犬名かにはちよいちよいと使用されている。

 「私と犬」中にはちよいちよいと使用されているが、「楠号」の作出者というべき大角勝太郎氏が使われているのは肯あるかなと思われる。安原峻一氏も使用されている。貝藤忍氏も仁木忠男氏も使われている。私も寺岡氏の影響か知らぬが、いつもこの字句を使いたがる傾向があるのか、使わずともいいと思われる所にも使うている場合がある。松本克郎氏に至り形容詞というよう生まやさしい事ではなく、こにお気魄という事に対して真向からブチ当つて究明しようとされている熱意は敬服に価するものがある。

 気魄ということに関連して使われている言葉は次の如きもので、「気質」「気性」「禀性」「根性」「渋味のある」「素直な」「良性」「忠実」「従順」「素朴」「品位」「威厳」「鋭さ」「水も洩さぬ斬れ味を思わす」「沈勇」「沈着」「落ち着いた風貌」「面構え」「狂暴でない」「狂躁性でない」「暴勇でない」「勇敢な」「大胆な」「度胸のある」「肝玉の据つた」「争闘的な」「怜悧な」「意志力」「弾力ある」「隙がない」「電光石火」「感覚鋭敏な」「動作敏捷」「うかつに手の出せぬ凄味」「悍性」「精悍味」「悍威」「強健」等と、多種多様に使われ、それ程気魄というものは深みのあるもので、一面如何にしてそれを強調するかということに焦つているようにも思われる程のこの言葉である。それ程気魄というものは適確に表現しにくいものであるらしい。

 次に気魄ということの礼讃されている言葉も次の如きものがある。「骨の枯れた気魄のある犬を見ていると日本人として生れた事を感謝したくなります」(松本克郎氏日本犬本年一月号「気魄こそ日本犬の生命である」(松本氏日本犬本年三月号)「気魄は日本犬の独特のもので全く何とも言えない良さがある」(同右)「幽然として胸に迫るものを感じ、凛として四方を払う気概ある頼もしさは何と云つても日本的美しさであり、日本犬のみに与えられた特徴である」(同右)また、うまく形容され礼讃されているのは、「寂滅より紫電一閃すれば一刀両断、肉を斬るにあらず、空を斬り、無を斬る、と言う日本剣道の迫力と相通じている」。(松本氏日本犬本年三月号)と。

 気魄の体型の関連や訓練との関連は相当慎重に考えなければならない問題であるだけに、この方面に就いてはあまり書かれていないようである。これに関しては寺岡氏と久米氏が書かれている。「必然的に気魄優れた勇猛の犬の系統が栄え気魄秀でたものに悪しき体型を示すものなく」(久米氏日本犬第六巻二月号)と云われ、同年四月に於いては、「卓抜な気魄は卓抜な体型に潜む」とまで喝破された。この事に就いては松本氏(日本犬第七巻二月号)も「気魄は犬の眼や面構えやその性根の中にのみ宿るものではないと言うことだけは断言出来るのであります。尾の先、肢の先、耳の尖端にまで気魄は要求されるものでありまして四肢のみを観察しましても、その犬の気魄は躍如として窺うことが出来るのであります。静止状態に於ての全身鵜の毛でついた程の隙もない」と具体的に述べられ、また「身体の各部に気魄は表現さるべきもの」(松本氏日本犬本年三月号)と述べられている。松本氏は「卓抜な気魄は卓抜な体型に宿る」と云われるのであろうと思われ、結局久米氏と云われる所同じようであります。久米氏は更に進めて、この気魄は「猟犬として或は家庭犬として日本犬を永遠性あらしむるもの」(日本犬第六巻四月号)と断じられている。寺岡氏も「日本犬の使役的価値」(日本犬第四巻第一号)の結語として「気魄鋭く、大胆、沈着にしてしかも鋭敏性あり警戒性、服従性に富み理解力発達せしもの」を今後の使役日本犬は要求されるべきだと断じている。私はこの気魄をどう導びくかという事を(日本犬第六巻五月号)「日本犬に限らず気魄というものは、使役上第一の必須条件であろう。しかしながらそれのみ讃えてよき気魄の導き方を忘れていては、骨董品を漫然と眺めているに等しいものである。(中略)卓抜な気魄を損う事なくして日本犬本来の気魄を育みつつ基本訓練の一部分でもいい服従訓練をやつてゆきたい」と述べた。

 ここまで書いて来ていささか辟易して了う。これから気魄の根本主義を究めたいと思うのだが、気魄という一字句は凡そ深遠なものであるのを感じるのであるから。気魄そのものに対しての解説は寺岡氏と松本氏のみが試みていられる。寺岡氏は問答の形式を以つて次のように気魄は「気魄だ、つまり悍威に富むと日本犬標準にある奴さ、意志力も強く、沈勇でありしかも鋭さのある所謂ピーンと来る奴さ」(関西支部報昭和十年十一月号)と多少持て余されていられるようにも思われる説明の仕方である。それ程気魄というものは誰れにでも多少は解つていながら、いざ言葉で表現しようとすれば仕難いものであるらしい。それが松本氏に至り尚更多くの字句言葉をもつて、また比喩までも加えて、それに対してはつきりと分明さそうと努力されている所がある。そして、「簡単にして断定的な言葉を弄することは慎み」(日本犬第七巻二月号)たいと云われている「各人各様の見解の差異あるようにも思えない」とも云つていられる。ところが三月号には、簡単にして断定的に気魄とは「犬の本質の中に沈潜する迫力の表現」とずばりと云われている所はさすがだと思える。そして犬の本質ということに当面していられる。安原氏と共にこの冬あたりより本質論を振り翳ざしての登場だけに当然の帰着と云わねばならぬが、この「本質」という言葉の内容やその他に関しても「気魄」と同じように、また多くの紙数を費さねばならぬ事であろうと思う。ただこれに就いては日本犬第三巻第二号の日本犬標準書解説中に「本質とは中型日本犬本来の性質素質のことでありその表現とは有型無型対者にその本質を感得せしむる処のものであり」とある通りの簡単な事に済ましたいと思う。最初に平島氏が「気魄」という言葉の解説をしていられないと言つたが、これに変わるべき「悍威」という項目の説明にてその解説に相当するものであると思う。事更に「気魄」と申されなかつたのは何か期する所あつた故か、或は無意識に「悍威」という事が使い馳れていられる故か知らぬが、ここにも「体に遊びのないたるみのない」と申され体型に関連しての説明あり「うかつに手を出すない凄味のある落ち着きを云いましょうか?」と全く「気魄」の解説と同じものと見倣してもよかろうと思うのである。

 さて、以上述べてきた事を綜合して未定稿として定義づけてみようと思う。
 気魄とは悍威、精悍に通じ、犬そのものの本来の性質、素質の中に沈潜するところの迫力の現現であつて或は水も洩らさぬ斬れ味を思わす鋭さの中に威厳あり或は狂躁性でない勇猛果敢を想わす落ち着いた面構えとなり、或は怜悧な意志力の表現となり、隙なく動作敏捷、悍味を以つてうかつに手も出せぬような凄味こそ幽然として胸に迫り、凛として四方を払う気概となるのである。この卓抜な気魄こそ卓抜な体型に宿るところのものにして、猟犬とし家庭犬として日本犬を永遠性あらしむるものである。しかしながら、これを徒らに讃えるのみでなく卓抜な気魄を損うことなく適確に使役的に教導して以つて万全を期すべきであろう。

 と、云つてしまつてもまだ気魄に就いて云い足りないという気持ちがあるし、これで果して気魄というものを人に伝える事が出来るかどうかと考えれば、やはり気魄というものは定義づけしてしまうものではなく、精神的なものだけに精神的に感じるより仕方なく、結局、寺岡氏の謂われるピーンと来る奴だと云うよりは仕方がなかろうと思う。

 また、松本氏の謂われるように、気魄即ち日本犬とも云えるのではなかろうか。気魄なき日本犬は存在しないかのであるから。(昭和十三年七月十八日ヤポニカ舎にて)

※原文のまま掲載

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こだま


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谺号-湘南美雅荘 桃太郎の息子。

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もう一枚。谺の命名は金指光春先生。

産まれた時はごっちゃんと同じような毛色だったので間違いなく胡麻毛になると思ってた(毛質が凄い)のに、いつの間に赤毛(みたい)になって来た。でもまた黒毛が増えて来たのでこのまま毛質を保ったまま胡麻毛になってもらわないと。血統書は胡麻毛で申請しちゃったんだよね。

先祖に胡麻毛が居るだけで胡麻毛にって言うのもなんだけど、田代さんとこの雅の鉄源力号(湘南美美雅荘)は小さい頃赤毛でいつのまに胡麻毛になったからな。

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雅の鉄源力号-湘南美雅荘

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今年の3月で生後4年。こんな感じになった。

お気に入り


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金太郎号-野武士小屋 桃太郎の父犬。
口吻が"フング"ってなってるところがお気に入り。

展覧会に出陳したことの無い全くの無名犬の山出し犬的日本犬なのに、Facebookでの反応は上々。外国の人達はこんな感じの犬をあまりみたことないからなのかもね。



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古鉄号-湘南美雅荘 桃太郎の息子。
来月、台湾に行く予定。順調に育っている。

古鉄もう一枚。

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正面ばっかじゃ見えないことが沢山有るよ。


今朝の桃太郎はとても機嫌が良かった。
桃太郎には心ある人達がついているから大丈夫。ホントだよ。

犬の毛色考

出典:社団法人日本犬保存会 会誌「日本犬」 昭和48年 第10号 より

犬の毛色考 (抜粋)  農学博士 長倉義夫

毛色は人々の嗜好によって段々に移り変わっていく。この傾向は体型の好みと同じで、十年前の名犬が、必ずしもその儘現在通用しない場合すらあり得る。余りの急速な変貌は危険であるが、嗜好もまた、その行き過ぎは危険である。その犬種が台無しになってしまうからである。

毛色を考える場合に重要視すべき点は、美しさということの他に、その犬体の健康にどうだろうかという考慮を払う必要がある。そのような悪例は沢山に今までに経験しているので、躊躇なく、健康を害するような毛色は思い切りよく諦めなくてはなるまい。これは当然のことである。ただしそういう冒険をしてもなおかつ大丈夫という限度が、はっきりと確信出来る場合は別である。

濃い色は問題なくこれは健康色であり、気持ちのよい色彩である。しかし一方、珍妙なる斑形や斑色の配分もまた捨て難い味わいがあり、淡色化からさらに進んで漸進的に色が褪めかつ消え去ってしまうそうした途中における淡色化に発生する複雑色も決して、あなどり難い魅力を倍加こそすれ興味を減退させる原因にはならない。

ただ、その犬種の健康を保持し、その将来の健全発展を思うのであるなら、一応限度をしっかりとわきまえておくべきであろう。またもし仮に人々を驚かせるに足りるような毛色ができたとしても、そのために健康体でない基礎に生れた色であっては、与える感応も大いに減殺されてしまい、努力した甲斐も根こそぎ無くなってしまうことであろう。

矢張り日本犬は、その基本的な標準色こそがその表現であり、その毛色を遠ざかれば遠ざかるほど、珍妙ではあっても体型と性格にひびが入ってくるに違いないのである。

ゴキブリ

ゴキブリが大嫌い。

先週、帰宅寸前の会社で大きなゴキブリを1匹発見。思わず

ホアーーッ!

と大声を出し。で、気付かない振りをしてそのまま出口へ。
下に居た人達が「ゴキブリでもいたんじゃないの」って言ってる声。そうなの。

ゴキブリ(とか動きの予想出来ない虫)は大嫌い!

で翌日。
いつも通り会社でお仕事してた時に何気なく真上の天井の照明器具を見上げたら。

ホアーーーッ!!!

ゴキブリが真上の照明器具に居た!

自分で処理出来ないので会社の人(あきれ顔)に処理して貰った。

ゴキブリみたいな人も大嫌い。

あんた、桃太郎に惚れてるね?


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「天然記念物 日本犬」 小山宏著 昭和60年 倉福荘刊 

先日購入した「日本の犬と狼」と一緒に購入。カラー写真が豊富。
通勤に持ち歩いているバッグが重い。なぜなら「日本の犬と狼」が一冊。


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中央がももたろうのおにいさん。

幼稚園のクラスはももぐみ。
この頃から桃に縁が有った。桃太郎。

もうすぐ二十歳(人間換算)。7月7日。

居残り勉強

仕事帰り、金指光春先生宅へ。

『そうか。そんなこと言ってるのか』

もしかして先生、知ってた??

『天狗が言われるなら判るけどな。現状でだよ?』

そうなんです。

『でも、本当は違うけどな』

えええ?でも今の天狗だったら言われても、と云いつつ違うって言うのは??

『言ってやりな。名誉毀損で裁判するって。兄貴も俺もお金いっぱい持ってるから』

僕が言わないのを見越して、僕がどうやったら冷静になれるのかを見越して、先生なりの僕への最大のなだめ方。さすが良くご存知で。


さあ、どうする。

斎藤弘吉さんについて

出典  「日本の犬と狼」 斎藤弘吉 著
     昭和三十九年八月一日 雪華社 刊




斎藤さんのこと

         戸川幸夫

尊敬する先輩であり、日本犬や日本狼のことで色々と教えていただいた斎藤弘吉氏が、おそらく最後であろうところの出版をなされました。
氏が、最も書き残して置きたかった研究の一部、、それが本書であります。
氏は私に序文を書けといわれましたが、序文などと偉そうなことを書いたこともないし、また氏の著作にそんなことを書くのもふさわしくないと思いましたので、私が斎藤氏のことを書いた『死を見つめてる人』(週刊時事、昭和三十九年七月十一日所載、日本と日本人「忘れ得ぬ人々」その五)を次に転載することにしました。

今までは、故人ばかりを扱ったが、今日はまだ生存している方のことを書きましょう。
その方は、生存してはいれらますが、不治の病に冒されて間もなく訪れる死をじっと見つめて、泰然としてベッドの上で著作を続けられているのです。
その方の名は、斎藤弘吉氏、、やがて私の忘れえぬ人々の一人になられることでしょう
私が斎藤弘吉さんに、はじめて会ったのは、記憶に誤りがなければ、私が新聞記者になった年ですから、二十五歳の時です。
斎藤さんは、もちろん私などよりは年長です。あとでお聞きしたのですが明治三十二年の生まれだということですから、私と十三年のひらきがあるのです。
お会いしたのは、この時が初めてですが、私は山形高校の生徒のころから、斎藤さんの著作を多く読み、斎藤さんが創られた日本犬保存会に入り、直接ではありませんが友人(この人は私の小説"高安犬物語"に出てくるパン屋の木村屋さんこと鳥海英吉氏で、この人も私より七歳年うえです)を通じて、斎藤さんに日本犬や日本狼についての質問をしたりしていましたから、前々から知っているような(こちらだけは)そんな気持ちでいました。
斎藤さんは、そのころ既に、忠犬ハチ公のことを世間に知らせたり、狼の研究の第一人者としてジャーナリズムの上でもかなり知られていました。
私が斎藤さんの、当時世田ヶ谷に在ったお宅を訪ねたのは、別に社の命令があって行った訳ではありません。
そのころ私は世田ヶ谷の連隊や陸軍病院をうけもたされていましたので、時間の余裕をみて、ふっと訪ねてみようという気になったのです。もともと動物には興味がすこぶるあって、日本狼については特に強かったので会ってみれば、何か面白い話が聞けるかもしれないと思ったからです。
電話をかけてみると、おいで下さいということでした。斎藤さんの邸は畑や小川が見下せる高台にありました。玄関に立ったとき、閑寂として気品のある邸のつくりに、まず心をうたれました。
さすがに日本犬のことをやる人は違うなあ、などと思ったものでしたが、これは間違いでした当事の私は、犬や狼関係の斎藤さんしか知らなかったわけですが、斎藤さんの本命は、美術であり、建築造園だったのです。
ここで、斎藤さんという方がどんな人かご存知ない方のために、簡単に斎藤さんの紹介をしておきましょうその方が話を運ぶうえでよろしいのですから・・・・・・。
斎藤さんは山形県鶴岡の人です。庄内武士の流れをひいていて、中学生のことから武道にはげみ、柔道では麒麟児などと言われ、そのために柔道家になることをすすめられ、一時はその気になったそうです。
しかし、斎藤さんをそうさせなかったのは美術への吸引力の方が強かったからです。中学を卒業すると、家の反対を押し切って東京美校に入り油絵の勉強をつづけられました。
卒業してからは絵よりも、むしろ我が国中世以後の建築だの、造園だのの研究に進み、その設計を本業としました。その傍ら日本と中国の、というよりは東洋の古美術品についても学びました。
戦時中には近衛文麿公の古美術や古文献を保存している財団法人陽明文庫の主任だったこともあり、斎藤さんが管理した美術品の中には国宝に指定されたもの、重要美術品に指定されたもの、未だ指定されてはいないが博物館に展覧されたものなどがたくさんあります。
宋時代の庭を復元して天覧を賜ったこともあります。国立近代美術館の庭園の設計も斎藤さんの仕事の一つです。
美術と同様に斎藤さんが情熱を傾けた仕事は日本犬と日本狼の研究でした。日本の古美術品の中には日本犬がよく出てきます。日本人の祖先と(それは人間の祖先とというのと同じですが)犬との結びつきはいつごろから始まったのであろうか、、、。
斎藤さんは、単に趣味だけで満足できる人ではないのです。とことんまで究めないと気がすまないのです。
斎藤さんは青年のころ健康を損なわれて、犬を飼って散歩させることで健康をとり戻されたことがありました。そのとき飼われたのが日本犬で、日本犬の性格の良さにつくづく惚れこまれていました。
日本人と同様に、この国土が生んだ、そして日本人と共に生き続け、よい友人だった犬を調べてみようと考えられたのです。
斎藤さんの日本犬に対する研究は徹底していました。日本古代犬の骨格、出土地域と年代の調査が続きました。
そうしているうちに古代人の貝塚、住居趾等から犬ではない狼の骨が出てきました。犬と狼と人間との関係について斎藤さんは研究を続けたのです。
日本狼、、、俗にオオカミまたはヤマイヌと昔の人たちに呼ばれていた、、、は明治三十八年かに米人アンダースン氏によって奈良県鷲ガ口で蒐集されたのを最後として日本から姿を消し、今日では絶滅したといわれています。
魚や穀類、野菜を主食とする昔の日本人にとっては、畑の作物を荒す鹿や猪や兎を退治してくれる狼は(南部地方のように馬を放牧している地方を除いては)大変な味方だったわけで、そんなことからあれは神様のお使い姫であるとか、大口の真神(口の大きな神様という意味)とかいわれ、終には"オイヌサマ"と敬って、狐つきを落とすのに効があるなどといって、その頭骨を神棚にまつり大事にしたものです。
まあそのために地方の旧家などを丹念にさがすと保存された狼の頭骨がありました。斎藤さんはそれらを一つ一つ捜し続けて研究されました。なにしろ神様あつかいにしているので、地方の人はあまり外に出したがりません。それをいちいち学問のために必要だといって借りてきて研究するのですから大変です。斎藤さんは全国から何十個という狼の頭骨を集めて研究されました。斎藤さん自身が発見したのだけでも二十数個に達したでしょう。地味な、一般うけしない研究でしたしかも学問の喧ましいこの社会にあって、美校出の彼が主張してもなかなか認めてくれなかったのですが、やがてだんだんとその研究は認められだし「日本狼のことなら斎藤の意見を聞け」と言われるようになったのです。
また斎藤さんは研究室にだけ閉じこもっているような学者ではなく、実践家でした明治以後、日本にどっと入ってきた洋犬に圧倒されて、日本犬が絶滅に瀕したことがあります。大正の末期から昭和の初期にかけてです。今日ではどこにいっても見られる立耳巻尾の日本犬も、その頃は地犬と呼ばれて野良犬あつかいにされ、殆ど姿を消し、東京なのでは全くといってよいほど日本犬を見ることはできませんでした。
このまま放っておいたら、日本人と共に歩んできた日本犬は数年を出ずして絶えてしまう、、、そう心配した斎藤さんは、日本犬を保存する運動を起こそうと決心したのです。
斎藤さんは、まず種犬として残しておきたい優秀犬を発見し、その犬籍簿を作って、それを基として交配繁殖させ、同時に純血を保ってゆこうと考えました。しかし、どこにどういう犬がいるかわからないのに、それを捜し出し、保存するということは言うのは易しいが大変な困難です。
斎藤さんは草鞋がけで全国の僻地山間を歩きまわりました。幸いに日本犬(中型犬、小型犬)は獣猟に使われているので山奥の猟師などはたまに良い犬をもっていたのです。
斎藤さんは百姓家に仮宿したり、絶壁をよじたりしながら甲州の山奥に行ったり、新潟の三面部落なども訪ねました。
しかし、困ったことは、そういったいい犬は持ち主が手放さないことです。。繁殖するにはどうしても、どこか一ヶ処に牡犬と牝犬を集めなければなりませんそれに一人でなん匹も飼育することもできません。
そこでどうしても大衆の力を借りるしかなかったのです。広く世間に、日本犬の優秀さを訴えて、多くの人々に日本犬を見直させ飼育してもらいたい。
斎藤さんの運動に共鳴する人々も少しずつ集まってきました。そこで昭和三年に日本犬保存会を創立し「日本犬」というPR雑誌を発行されたのです。
斎藤さんは宣伝は嫌いでしたが、日本犬熱を煽るたmけにはやむを得ませんでした。日本犬にまつわるエピソードをいろいろと新聞や雑誌に投稿もしました。その中で特に世人を感動させたのが渋谷の忠犬ハチ公です宣伝といっても、嘘が混っていたのではありません。ハチ公は賞讃さるべき犬で、斎藤さんはハチ公が、秋田から連れてこられたばかりの幼犬のころから知っていてかわいがっていたのです。ですからハチ公の物語りが創作でなしに、かなり正確に世に伝わることができたのです。
日本犬保存はようやく軌道に乗ってきました。そこで斎藤さんは保存会を退きました。斎藤さんの眼はさらに大きく、飼育動物全般の愛護に向けられたのです。
こんど病気のために後任を加藤シヅエ女子に譲られて引退されましたが、十六年もの長い間、日本動物愛護協会の理事長をつとめ、そのほかにも世界動物保護連盟日本代表理事をはじめ、十指に及ぶ動物愛護関係の団体役員をし、日本でというよりも、むしろ外国で知られているといっても過言ではないでしょう。
紹介がやや長くなりましたが、私が最初に斎藤さんに会ったとき、彼は三十九歳だったわけです。家の佇いは寂のある、いい家でした。
そのとき斎藤さんは狼の頭骨を七つ八つそばに置いて研究されていました。私は一時間ぐらいで失礼するつもりだったのが、話に夢中になって五時間ぐらい日本犬と日本狼の話をして、鰻丼を御馳走になって戻りました。
その時から、しばしば斎藤さん宅を訪ねよく記事の種も貰ったものです。
作家になった後でも、私と斎藤さんの交際は続きました。続いたというよりも、より親しくなったの9です。
斎藤さんの日本狼と北海道狼(蝦夷狼ともいい明治二十二年ごろに絶滅しています)との比較研究、日本産の狼と南方系(インド、中国)狼、北方系(シベリア)狼との関係を調べる研究はずっと続けられました。斎藤さんの研究は後では貝塚から出土した犬科動物の骨の一部分から、これが人間に飼われた古代犬であるか、狼であるか、、、、それを計測によって突きとめんとする研究に賭けられたのですこれがわかればいつの時代から犬は人間と結びついたかがわかるからです。出土してくるものは殆どが崩れていて、骨歯の一部分しか形を残していない。だからどうしてもそれを計測することによって、正体を突きとめねばならないのです。
だが、この骨格計測法という学問はこれまであまり発達していず、行われているやり方も粗雑なものでした。それに、そういった指導書がないために、研究者がみんなイロハからやらねばならない煩わしさがあったわけです。
さって、斎藤さんのその研究は完成して、原稿は山とつまれました。だが、あまりにも専門的な研究であるために、どこの出版屋でもひきうけないのです。
私も知っている出版社、、、それも科学書や学問所を出しているところに、いろいろと当たってみました。ですがどこも尻ごみするばかりでした。それも無理からぬことです。どんなに学問的には貴重だったとしても、売ることを商売とする出版社が、こういった特別なものを扱うはずはないのです。
斎藤さんが躰の変調に気づいて昨年二月から慶応病院に入院診療をうけ、癌センターに入院されたのは昨年の五月のことでした。
診断は肺癌ということでした。もちろん病院ではこのことを本人に知らせなかったのですが、奥さんの表情から斎藤さんは悟りました。彼は、たとへ癌で見込みがないとしても決して愕かないし、自分にはぜひやりとげなければならない仕事があるから正確なところを率直に話してもらいたいと主治医にたのんだのです。
医師はしばらく考えたあとで、
「それほどに言われるなら申し上げますが、実はあなたは肺癌だと思います。しかし絶望ではありません。今すぐ手術をしてその部分を切りとってしまえば治らないことはないでしょう。
しかし、それは一日も早い方がいいのです」
と、手術をすすめました。斎藤さんは再びたずねました。
「手術をすれば絶対治るでしょうか?他の部分に転移してることはないでしょうか?もし、手術をしなければあと、どれくらい保ちますか?」
医師は答えました
「手術をすれば治る可能性が大きいというのでして、絶対治るとまでは申せませんね。ただこの際に、絶対といえるものがあるとしたらそれは手術しなければ死ぬということだけです」
「手術をしなければ、あとどれくらい生きられますか?」
「一年半でしょう」
斎藤さんはベッドの上で静かに計算されたのです。
奥さんはどうか手術をして下さい。最後のチャンスに賭けて下さいと泣いて頼まれたそうです。斎藤さんの親しい友人の方々も見守って手術をうけるようにすすめられました。
だが、斎藤さんは聞かなかったのです。ちょうどその頃、私の文学の師である長谷川伸先生が聖路加病院に入院されていて死と懸命に闘っておられ、私は毎日お伺いしていたので、ある一日、先生の小康の日に斎藤さんを見舞いました。自分がでかけて、何とか手術をうけるよう説き伏せよう、そんな気負った気持ちもたしかにありました
斎藤さんは私におう言われたのです。
「手術をしたとしても必ず助かるかどうかわからないのです私の体力もかなり衰弱していますし、手術に耐えられるかどうか・・・・・・。
かりに耐えたとしても、そのためにぶらぶら寝ついたままで、何もできずに生きて呼吸しているだけどいうなら困りますからね。
一年半生きられるのなら、あとの半年は身ううごきならないとしても一年間は静かに仕事をすれば、なんとかやれますから、一年で残しておいた仕事をしたいのです」
「しかし、お子さんも小さいのですから、何としてでも生きることを考えて下さい」
と私はすすめました斎藤さんは
「娘(一人娘で、小学生)はまだわかりませんから、お父さん、死んじゃあ嫌といいますがね」
と斎藤さんは寂しく笑うのです。私は極力手術をすすめて戻りました。
恩師長谷川先生が亡くなられたのは、その月の十一日でした
先生に逝かれた私は、その寂しさから斎藤さんだけでも生かしたいと再び病院を訪ねました。斎藤さんは前よりもやつれていて、
「明日、退院します」
と先に言いました。
「どうして手術をしないのですか?」
私は詰問するような口調で言ったと思います。
「私はね、死ぬことは少しも怖くないのです。ですが、仕事をやり残して死ぬのは怖いのです。私がこれまでにやってきたことの成果を、ちゃんと書き遺してゆきたい。少なくとも犬科動物骨格計測法だけは、どこも対手にしませんから自費出版にでもして図書館や大学、研究所、学会、それに各国の研究機関に配っておきたい。
このあとから勉強する人たちが、私と同じ苦労をしないですむために、是非これだけは遺してゆきたいのですよ。それには一年の月日が私に必要なんです。ですから家内を呼びましてね、決心をうち明けて、満足して死んでゆけるように私のわがままを許してくれと頼みました。
家内もわかってくれました」
斎藤さんの微笑には不動の覚悟が見られたのです。
私は長谷川先生が残された言葉を思いうかべました。
「死ぬことは難しくないのだよ、気をゆるめさえすればいいのだからね。生きることが難しいのだ。
だがね、生きるということは呼吸して、飯を食って、動いているというのじゃないんだね。なにか、世の為になるいい仕事を残す、そしていつまでも人々の心の中に生きている、たとえ名前は知られなくてもいい、役に立つ、人の心をうつものを残すことが"生きる"ということなんだよ」
「私はベッドの中で、なんども死のうと思った。多くの人たちが貴重な時間を裂いて私を見舞いにきてくれる。集めてみればそれは大きな損害だ。多くの人に損害を与えないよう、死のうと思ったが、考え直した。この人たちは義理ではなくて、こころから私に生きろと励まして下さっていることが解ったからだ。天がもし私にさらに生命を貸してくれるならば私は治ったら網走に行って服役者たちが世間の人には知られずに如何に偉大な仕事をしたかを書くつもりでいるよ」
その先生が悲しくも亡くなられて、いかにも心残りだったろうと私は考えました。先生はよく紙碑を建てると申されました。石の碑、銅の碑は毀れる時がきます。しかし、紙に書き残された碑は、消えないでしょう。斎藤さんの悲願もそこにあると思いました。
私は、もう手術のことを言いませんでした。長谷川先生が私に話された、そして私の心に深く彫りこんだ言葉を、私は喋りました。
斎藤さんの瞼がうるみ、きらきらと光るものが耳へと流れました。
「その通りです。あなたは本当にいい先生を持たれて幸福でしたね」
と斎藤さんは言いました。先生もそうだが、友人先輩にもいい人を持った私は倖せです。
斎藤さんのことを私が新聞に書いて数日あと、私は自宅で養生されている斎藤さんを見舞いました。斎藤さんは床の中で犬科動物骨格計測法のゲラに筆をいれていましたが、
「お陰でやっと出版することになりました。ただ一番こまったのは、英仏独露丁の中、露語は苦手でしてね」
と笑われました。それはやつれてはいたが、嬉しそうな笑いでした。それから彼はゲラを置いて、
「私の死期が半年ほど早くなりましたよ。肺だけでなく肝臓などにもできていたのです。それで予定が狂いましてね、この計測法のあと日本狼と古代日本犬の本を書き遺すことにしていましたが、とても全部はできそうもありません。友人からも狼のことだけでも遺していってくれと言われ、そのつもりでいますがね。
私はね、死が迫ってきたとき、狼狽しはしないかと怖れていましたが、一生のうちで昨今ほど、気持ちのよい、楽しい時代はありませんでした。
といいますのはね、あなたが新聞や週刊誌に私のことを書いて下さったので、全然未知の方から、さまざまな激励の手紙だの、漢方薬だの送ってきました。
人々の好意や、やさしさ・・・・・・私は多くの人々の善意の花園の中に横たわっているのです。
そして、いくらかでもお役に立つ仕事を遺して死んでゆける・・・・・・それに家族もなんとか食べてはゆけますから、満足してゆけます、死をこんなに楽しく迎えられるとは思ってもみなかった私はしみじみ幸福な者だと思うのですよ」
斎藤さんは星を見つめるような美しい眼で私を見たのでした。

これで斎藤氏のことがおわかりになったと思います。
どうか、本書を心をこめて読んでいただきたいと希望いたします。




20130621214740.jpg

ミィコの命日


み.jpg

早いね、もう2年過ぎた。


「日本の犬と狼」斎藤弘吉著 を読み進めている。
復刊して欲しいね。
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