節分


DSC_8806.jpg


獺郷に鬼が出没!




以下省略・・・・・・



っm.jpg


眼は三角。


歳の数だけいただきました。

忠実な犬

平成初期、平成名物TV『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』と言う深夜番組が有った。その番組で岩崎友彦監督の作品、『忠実な犬』が放映された。衝撃だった。犬は画面には一度も映らない。

深夜番組なだけに、観ていた人も憶えている人も周りには居なく、ずーっとずーっと、活字以外の手がかりを探していたら岩崎友彦さんをFacebookで見つけて大感激!

これで、いつかきっともう一度この作品を観る機会が絶対に有る!と確信。あの有名な"犬の十戒"よりも、もっともっと、もっともっと伝わると僕は思う。



192256_162361083818946_4616610_o.jpg
『美喜!』って呼んでくれるまで 待ってる

468950_380999498621769_288904559_o.jpg
ちぇっ、つまんないの。。。。。。

278147_383542955034090_1425097228_o.jpg
もうすこし あそびましょうよ

621019_389450744443311_256691646_o.jpg
今日はなにして遊んでくれるの?

179546_389215487800170_692458686_n.jpg
早く帰って来てね!


『犬は友達だぞ』と金指光春先生は言う。

いつでも戻れる



今から30年前、1984年1月28日に発売されたCyndi Lauper の タイム・アフター・タイム。同年6月9日とその次週、全米No.1になった。


552482_381455851909467_609147102_n.jpg
日本発売は4ヶ月後、5月21日。

DSC_8472.jpg

DSC_8470.jpg

日本盤は特殊なジャケットで、ドーナツ盤6倍の面積のポスター付。

スクリーンショット 2014-01-28 20.02.48.jpg

スクリーンショット 2014-01-28 20.09.58.jpg

PV(プロモーションビデオ)がまた凄くいい。説明するよりも観てって感じ。

タイム・アフター・タイムを聴くといつでも14歳に戻れる。14歳にどうだったのか、この曲が有ったから全部憶えている。勿論、当時湘南美雅荘に居た犬達のことも憶えている。

僕にとっては一生涯の特別な曲。




DSC_8451.jpg

今日撮影した天狗。桃太郎の息子。生後1年5ヶ月。

798252_470286786359706_1833512046_o.jpg

この写真は1年前に撮影されたもの。目ブチが大分抜けて来た。





今年に入ってからFacebookで外国の人達からメッセを貰う機会が増えた。
売る犬は居るのか、犬を売ってくれつうのにはやんわりとお断りをするけれど、他の日本人のことを訪ねて来る人が増えた。あの人はどんな人か、と。
知っている人に関しては判る範囲内で答えるのだけれど、全然知らない人は知らないと答えるか誰か他の人から情報を貰って答える。更に個人的に大嫌いな奴のことはおもくそ悪口を。なんてな。





日保兵庫支部の浦浪臣晃さんから送って頂いたDVD、もうすぐ全部観終わりそう。
一度に観るの勿体無くて(汗


阿久号と小山田菊次郎氏

日保兵庫支部の浦浪臣晃さんから、北海道犬の基礎犬・"阿久号"の秘蔵フィルムを頂戴した。
昭和10年撮影。今から約80年も前に撮影されていることにも驚きだけれど、この貴重なフィルムを繋いで下さった浦浪さんには本当に大感謝。


DSC_8148.jpg

熊と戦う阿久  ハンター 小山田菊次郎

白黒フィルム。無音声。

DSC_8149.jpg

昭和10年5月4日 ちとせ川上流 
主催 アイヌ犬保存会
企画、解説 伝法貫一
撮影 宮古芳夫

DSC_8150.jpg


動く阿久号

貴重。


浦浪さんには他にも沢山のDVDを頂戴した。阿久のフィルムの次にまた1本観た。
日本犬の謎のルーツを探るものや、阿久の件のフィルムを含む解説など、マジで食い入るように観てしまった。

まだまだ、沢山のDVDを頂戴したので、改めて。



ここをご覧になられている若い方々へ。
先輩方の話に耳を傾けるようにおすすめします。
自分で勝手に脳内で作るのはやめたほうがいい。

真剣に聞く耳を持っている人に教えないなんて、
日本犬を好きな先輩はちっちゃくありませんから。

作出・保存とは







日本犬はどうだ?

日本犬保存会創設者・斎藤弘吉さん


その1


その2


その3


その4


DSC_7851.jpg

雅の胡蝶号-湘南美雅荘 生後2年6ヶ月

柴犬の隠れたスタンダード

20130621150440.jpg



mmtr.jpg

桃太郎号-湘南美雅荘  
生後2年5ヶ月時  撮影・武田雅志



柴犬の隠れたスタンダード 作画・文 金指光春先生
この文章は金指光春先生が20年ほど前に愛犬の友(誠文堂新光社刊)へ寄稿したものです。

■会話から垣間見る柴犬の見方

①目ブチ千両
柴犬の究極の美は、目と毛質にあると思いますが、人里離れた深仙奥山の深渕をのぞく思いの目、すなわち大自然と同化しうる神秘的な美しさ厳しさが表現されている目が最高ですが、ここでは奥まった目、深い目と言っておきましょう。

②真一文字
口吻が引き締まり、唇が一文字になっていて、弛みは良くないといったことですが、口を開けた時、横から見ると深く割れたように見えるものです。

③耳の中が白く抜ける
柴犬は裏白が基本ですが、耳の中の毛が白く、長くないのが、顔貌を引き立てます。

④後頭部より頸部(ナゾエ)
後頭部の充分な発達と頸部に至るまでを言いますが、毛質にも関係し、全体として奥行きのある頭部と表現しましょう。

⑤狐足に似る(ツマミ)
趾部を表現したもので猫足ではない「狐の足に似て、指甲より爪にわたり稍長形をなす」ことを言う。いわゆる大きくなく、しっかりと握りしめていることだと思います。中号(明石荘)、中市号(明石荘)の系統にこの足が多く、全体の動きが非常に敏捷で有ると感じます。

⑥弓状線
後肢がふんばり良く、力強く見え、内側の線が弓を張ったように見えることを言います。

⑦背線との空間は広い方が力強い(オニギリ1個)
オニギリ1個、または、ムスビ1個と言いますが、巻き尾でも背線と尾の間にオムスビが1個入る空間を持てと言うこと、すなわち、巻き過ぎはダメといった意味と思います。

⑧幅広いものは動きが重い
太いとか、大きいとかの表現は必要なく、内側の弓状線と共に、厳しい、強い、逞しさが必要で、角度と連係して、筋肉、筋腱の発達と共に、乾燥した体質からくる動的メカニズムが要求されます。無論、各部との調和の比例ですが、電光石火の動き、猟野での能力発揮の上からも、この部分に注視することによって、他の各部も理解できます。

⑨被毛は三段毛
顔貌など精神的な表現以外から、外貌上の素朴感は、実にこの被毛から受ける比重は高く、純粋性をも表現します。この三段毛とは、1本の毛が赤毛の場合、先端の五分の二が赤、次に白くボケ、その次に黒い部分が五分の一、後は毛根まで白くなることを言い、中号(明石荘)、中市号(明石荘)の系統に多く、現存する系統では、白馬の源号(琅鶴荘)の系統、山陰系統の中の冴え味のある少し黄味を感じさせる柴犬の赤毛に多いとだけ述べておきましょう。


■稟性

 柴犬の神秘的な特性を一般的には稟性と呼んでいますが、柴犬の本質の中で最も重要な柱の一本で有り、純粋性と共に持っている総体的な特性、性質の「悍威・良性・素朴」から品位、精神状態の表現まで、有形、無形のものです。
 一般的には、この稟性、すなわち、本質的なものが非常に神懸的とまで言えるほど理想的に説明されていますが、実際には、犬の気質は飼い主に、大変感化影響されると言われます。特に柴犬のように原始的な犬は、長い年月の歴史を日本民族と共に生活してまいりますと、日本民族の気質が柴犬にも現れるもので、一、他人になかなか慣れない。二、感情の表現が地味で分かりにくい。三、非社交的で頑固で有る。四、非常に勇敢であるが、反面喧嘩っ早い。五、特に訓練しなくとも、家庭犬として容易に定着できる。六、他の生物に対しての感心が高く、猟性能が有る。七、帰家性もある。
 このような本質が、精神的な面として内在しています。よく展覧会場などで「スタンダード通りの犬を作出して連れて来たから今日は1席だ」と公言している人を見かけますが、柴犬のスタンダードとは標準体形のみを言っているのでは無く、最も重要な本質とその表現までを言うので有り、そんな場合、その犬は、飼育者に似てチャラチャラとした軽薄なものが多く、稟性を中心とした柴犬の品位、風格の美しさなど感じられません。所謂柴犬としての価値の低いものが多いと思えます。「仏作って魂入れず」といったところでしょうか。
 柴犬は日本の有史以来、猟犬として、その姿態、精神的なものも含めて、あくまで祖先が持っていたものを具有していなければなりません。そこに柴犬の存在価値の大部分が有り、保存も含めて、柴犬に対する日本人として、熱い血が沸き立ってくるのです。
 審査は、確固不抜の信念と勇気、学識経験と熟練を積み、犬を一見してその価値を洞察し得る能力が判定に現われます。その能力と判定いかんによっては、実に柴犬の盛衰に関わるといっても過言ではありません。

日本犬の眼

DSC_7493.jpg
桃太郎号(湘南美雅荘)の眼 平成25年5月撮影



出典  「日本の犬と狼」 斎藤弘吉 著
     昭和三十九年八月一日 雪華社 刊



【 日本犬の眼 】


 我が国古来よりの犬の眼の説を申し上げますと、今より約四百三十年ばかりの前にあたる永正三年三月吉日の奥書ある、『斎藤朝倉両家鷹書』という秘伝の犬の相好の事の部に「かくの如くなる犬よし、いろいろ口伝ある也。いぬいかにも目のまえをれて」云々とあります。この目のまえをれてとは、素直というような意味合いではないかと存じます。
 小橋治郎右衛門『犬の書』、これは慶長二十一年八月十三日の奥書のある、すなわち今を去る約三百二十年ばかり前の書でありますが、この書の乾の巻、犬見様の事の部に「目ははし前斗りまもり、まぶち高く、目色はしゅたんにあぶらをおとしたるがごとし」云々、また「犬めきき(中略)見様口伝なり、まなこのつき様いろいろふく中までも見る也」とあります。目ははし前すなわち喙ばかり守り見るということは、いたずらにきょろきょろせぬ、落ち着いた、胆力のある、しかも鋭敏な精神を表わす眼の表情を巧みな言葉でいったものであります。まぶち高くということはむしろ眼球の張り出ぬ、奥まった眼という意味と解釈したらよろしかろうと存じます。目色はしゅたんに油をおとしたるがごとしのしゅたんはなにをいったものでありましょうか、朱丹の意味かとも考えられ、あるいは紫檀の意味かとも考えられます。油を落としたるが如しの一句で大体の虹彩の感じを表したものと思います。また犬目利の部まなこのつき様いろいろとありますが口伝となっていて残念ながら判明致しません。
 『唐流鷹深秘訣抄』の犬吉相の事の部には「眼は一つ」として「いかにも目あひ近きを良とす」とあります。この書の犬吉相の書き振りはいかにも変わったものでありまして、耳の説でも申し上げましたように、「疣か耳か」として「いかにも耳ちひさきをよしとす」といい、やや極端に説いております。この目あいもあまり離れたのは、いかにも愚鈍な相でありまして、御犬名所図やその名所の説明を書いた『御犬書』を見ますと、この目あいの延びている犬を河伯子犬と称し、定家卿鷹三百首中の和歌「谷川の流るる上を風かけて、鳥をたつるやおその子の犬」を引いて、「谷川などにてかくるをば、谷渡りともいへど、かけこすとも云がよきなり、おその子の犬とは鳥をば立れとも犬やりの遅きをぞなり、此の目あひの延びたる犬は下かんなるもの也、それをおその子の犬と云ふ」と説明しています。
 犬やりとは、ここでは犬の突込みのことを意味し、下かんは勘の悪いという意味であります。しかしこの目あひ近きを良しとするも、離れ過ぎぬようの注意と解釈したらよいと存じます。その他『鴨寄犬引伝書』の鴨寄犬の相形の部には簡単に「目は茶色」といっているだけであります。
 我が国の最も権威のある秘伝書の『蒼黄集』『蒼黄秘抄』は眼についてどのように伝えているかと申しますと、いずれも犬を相する上において、最も重大に慎重に取り扱っております。『蒼黄集』『蒼黄抄』は、この眼のところは同文であって、「犬形之事」の部に次の如くにのせてあります。
 「(前略)眼至って見所あり、考る所此の一眼に限れり。口伝あり習を得て明むべし。有増をしるす。白犬に黒眼あり、黄犬にかし目と云て鷹の眼の如く玉のまはりに大なる輪あり、人目より惣眼とも赤し、黄犬に限らず他の毛色にも眼替あり、多く気性強しと云へり。さかしきあり、にぶきあり、せはせはしきあり、静かなるあり、気短あり、温和なるあり、強気あり、至て愚なるあり、是皆いぬを繫ぐ時目を持って考ふ。見立てる時に犬を好くと見損あり。巧をと得見立べし」
 まず、犬を相することのうちで眼は最も肝要である。考究するところはこの1ヵ所であると、その重大に扱うべきことをいっています。次に口伝あり習を得て明むべし、すなわちその微妙なところは書いて伝うべくもないので口授を受け、かつ実際に経験を積んで会得せよ、しかしながらその大略を記すと断って、変り目のことすなわち尋常の目色でない眼について、また眼によって判断する犬の性質、賢、愚、利、鈍、強、弱、静、懆、をいろいろ述べております。最後に是皆いぬを繫ぐ時、眼を以て考ふ。すなわち犬を選択する時は眼の表わす犬の性質を考えて決定するのである。といっております。繫ぐといいますのは、当時公儀御犬牽が、町や村々に放し飼いされている多くの仔犬中から、自分の仕込まんとする犬を一頭選択して、まず馴れさすために自分のところに繫ぎます。それで選ぶことを繫ぐと申したのであります。当時公儀犬牽は、一人に付いて一頭乃至二頭の犬を受け持って専心調教したものであって、この一頭乃至二頭のために代々扶持を頂き、その犬の調教のできばえ、将軍家御前での犬の働きばえによって、一身一家の浮沈に関係するものでありますから、その仔犬の選択も苦心をしたもので、名犬となるべき素質を持っている犬を、探すにずいぶん苦労したものと推測されます。繫ぐ時眼を以て考ふ。眼をもって犬の性質を判断するに精力を傾倒したものと思います。なお最後に、見立る時好くと見損あり、巧を得見立べしと注意がしてあります。最初に見たときに毛色や、形等によって、好きな犬だと思って見る時はその犬の性質の欠陥が判らず見損うことがあるものである。単に観賞のための犬ではなく、調教使役せんとする犬を選ぶときは、好き嫌いに煩わされずにその犬の本質を見抜かなくてはならぬ、それには巧を得、すなわち、不断の研究と多くの経験を経て選択せねばならぬと結んでおります。
 蒼黄秘抄には次の如くに書いてあります。
 「(前略)此の形を考見て何もよき様にみえ候はゞ、眼中を得と見るべし。人に愛されてそだち、食餌にも乏しからず成長したる犬は、眼中すなほに見え、恐けも少く、自然と性のよき所見ゆるものなり、か様の犬を好て用べし。相形は能く見え候ても、常に人に追はれ呵られ、食にも乏しくして成長したる犬は、自然と眼中にこりありて、人を恐れ形気悪し、か様なるは馴けもむづかしく、取り扱ひむづかしきこと多し(下略)」
 「(前略)眼中はたいゆうなる所を好む。(中略)眼中黒目がちにしてぎろぎろしたるは、得てさわがしくしてよろしからず。鳥当りにもさわがしく、年老ても直りがたく、少の事にも恐れて鳥をけ逵ること多し」
 前文のこの形を考え見てというのは、犬体各部の体型毛色その他すべてを考究してみて、良しと考えたなら最後に眼をとくと見られよ。生い立ちの良いものは性質素直であって、仕込みも容易であるが、形は良くても生い立ちの悪いものは性質が素直でなく、仕込みがむずかしい。このような犬は、眼中に自然と凝りがあって、すなわちなんとなく不純なところがあって判るものであるといっております。後文には眼中大勇なる所を好むと書いてあります。大勇なる性を表わす眼、すなわち眼の形、色、動き、表情が悍威、大胆、細心、賢知、順良、落ちつき等を表わす所のものは、最もよしとしております。これは猟仕込みのことのみならず、あらゆることに使役するに理想とすべき眼でありましょう。眼中黒目がちであって、ぎろぎろとしたのは得て騒がしくてよろしくない。鳥の嗅にをつける時でも騒ぎまわり、いささかのことにもびっくりして、鳥の嗅いをかぎちがえること多く、この性質は年老いても直らないものであるといってます。この黒目がちでぎろぎろした犬というのは眼の大きい、張り出たものによくあり、ちょっと強そうに感じるものでありますので、特に注意したものと思われます。
 以上は我が国古来の眼についての説でありますが、動物学の世界を見ますと、故渡瀬博士が「眼は茶色で、ある角度をなして上に向ひ」と講演したと『理学界』にでており、『動物辞典』には「眼は稍斜にして勇猛の相あり」としるされて、いずれも外眥の上がることを申しております。変わり目については『両羽博物図譜』が「眼の白青変駮馬の如きを見ること一にして足らざるなり」と述べております。しかしこれは明治三十年代の洋犬のだいぶ入り混じった時代の見聞記でありますので、我が国古来の犬にかのごとき変り目ありや否やは、今後の研究に属することと存じますが、鹿児島地方においても明治初期に金目、銀目、の説があった由を聞きます。しかし同地方は最も早く外国のものの輸入された土地で、洋犬の入ったのも全国中最も早い部に属する地方ではないかと考えられます。
 本会規定の日本犬標準の眼の部を見ますと、「稍三角形にして、外眥上り、虹彩濃茶褐色を呈す」とあります。これに私自身の考え、解釈の仕方をそえて申しあげますと、まず第一に眼が適当の位置にあって、両眼のあまり離れ過ぎぬこと。もちろんあまりに近接し過ぎましたものは嶮しい、陰険な感じが致しましょうが、近接過ぎると思われる眼は少なく、離れ過ぎると思われる眼は多少見受けられます。それで昔から、目あいの延び過ぎぬことを注意致したものと思われます。第二に眼の形のやや三角形で少々外眥上がることであります。眼の形は犬のその時々の精神によって変化あるものでありますが、その平静な時の眼の本来の形が、下目縁線がやや一直線をなし、少々斜めに上り上眼縁線は内眥すなわち目頭をなす方の線より外眥すなわち眼尻をなす方の線がやや長く、三縁線のなす眼の形は、やや三角形に近いように思われます。眼が丸くて目尻の下ったものは日本犬にはないように存じます。第三に眼の大きさでありますが、特に大きな眼は自然出張り出た、俗にいう出眼に多く、いわゆるぎらぎらとした眼で、臆病、少しのことにも騒しい犬に多くあります。特に小なるものは、多く眼の深まった位置にあります。このような眼つきのものは、勇敢であるとともに強情な性質も多いように存じます。やはり家庭犬としての日本犬は大ならず、また、極端に小ならず、中庸を得た程度の眼が望ましいかと存じます。第四に眼の深浅であります。もちろん張り出た俗にいう出眼は悪しく、やや奥まった位置でなければならぬと存じます。ただここに御注意申し上げますのは、同じ程度の奥まった眼でも、眼の大きさの小さなものは実際以上に奥まった感じが致し、同じ深さでも眼の形中程度のものは目立つほど深く感じないものであります。第五に虹彩の色であります。しかし日本犬そのものの目玉の色は濃茶褐色が基でありましょう。これより深い色をしているものに、やや青みがかった、深海の色とでも申すような眼があります落ちついた大胆な性質のものに多いように存じます。ここに御注意申し上げたいのは、左右の虹彩の色の多少ちがうものがありますことで、私のかつて飼育しておりましたあ、小型の牡は、左眼が濃茶褐色で右眼が今申し上げました深い青ずんだ眼を致しておりましたが、気性はなかなかよい犬でありました。目玉の外輪にやや色の浅い輪の入ったものがありますが、日本犬としては体型のやや感心せぬ犬に多く、かつ気性も、鼻っぱしは強くともどうも最後の落ち着きがない犬に多いように考えられます。第六に眼の動きであります。さきほど申し上げましたように、昔の秘伝書には「はしさきばかり守り見」とありますが、要は、ぎろぎろ、きょろきょろせぬ目使いが大切かと存じます第七が以上を総合しまして眼の表情、その犬の心を表現する眼の表現であります。眼のかがやき、眼の動き、眼のすべてが日本犬の本質である悍威、大胆、素朴、落ち着き、忠順、素直、彗智、鋭敏を表わすものでなくてはならないと存じます。
 なお眼の外傷その他は多少注意すれば判明致しますが、普通と変わりないように見えて、視力のたいへん弱い、俗にいう鳥眼と称されるものが犬にもあります。これはよほどご注意なさらぬと判明せぬことが多いように存じます結局眼によって犬を相するということは、その人その人の深い体験によって会得すべきことで、古人のいったように、巧を得て明むべしの一語に尽きるかと存じます。(昭和九年十一月)

斎藤弘吉さんについて




出典  「日本の犬と狼」 斎藤弘吉 著
     昭和三十九年八月一日 雪華社 刊




斎藤さんのこと

         戸川幸夫

尊敬する先輩であり、日本犬や日本狼のことで色々と教えていただいた斎藤弘吉氏が、おそらく最後であろうところの出版をなされました。
氏が、最も書き残して置きたかった研究の一部、、それが本書であります。
氏は私に序文を書けといわれましたが、序文などと偉そうなことを書いたこともないし、また氏の著作にそんなことを書くのもふさわしくないと思いましたので、私が斎藤氏のことを書いた『死を見つめてる人』(週刊時事、昭和三十九年七月十一日所載、日本と日本人「忘れ得ぬ人々」その五)を次に転載することにしました。

今までは、故人ばかりを扱ったが、今日はまだ生存している方のことを書きましょう。
その方は、生存してはいれらますが、不治の病に冒されて間もなく訪れる死をじっと見つめて、泰然としてベッドの上で著作を続けられているのです。
その方の名は、斎藤弘吉氏、、やがて私の忘れえぬ人々の一人になられることでしょう
私が斎藤弘吉さんに、はじめて会ったのは、記憶に誤りがなければ、私が新聞記者になった年ですから、二十五歳の時です。
斎藤さんは、もちろん私などよりは年長です。あとでお聞きしたのですが明治三十二年の生まれだということですから、私と十三年のひらきがあるのです。
お会いしたのは、この時が初めてですが、私は山形高校の生徒のころから、斎藤さんの著作を多く読み、斎藤さんが創られた日本犬保存会に入り、直接ではありませんが友人(この人は私の小説"高安犬物語"に出てくるパン屋の木村屋さんこと鳥海英吉氏で、この人も私より七歳年うえです)を通じて、斎藤さんに日本犬や日本狼についての質問をしたりしていましたから、前々から知っているような(こちらだけは)そんな気持ちでいました。
斎藤さんは、そのころ既に、忠犬ハチ公のことを世間に知らせたり、狼の研究の第一人者としてジャーナリズムの上でもかなり知られていました。
私が斎藤さんの、当時世田ヶ谷に在ったお宅を訪ねたのは、別に社の命令があって行った訳ではありません。
そのころ私は世田ヶ谷の連隊や陸軍病院をうけもたされていましたので、時間の余裕をみて、ふっと訪ねてみようという気になったのです。もともと動物には興味がすこぶるあって、日本狼については特に強かったので会ってみれば、何か面白い話が聞けるかもしれないと思ったからです。
電話をかけてみると、おいで下さいということでした。斎藤さんの邸は畑や小川が見下せる高台にありました。玄関に立ったとき、閑寂として気品のある邸のつくりに、まず心をうたれました。
さすがに日本犬のことをやる人は違うなあ、などと思ったものでしたが、これは間違いでした当事の私は、犬や狼関係の斎藤さんしか知らなかったわけですが、斎藤さんの本命は、美術であり、建築造園だったのです。
ここで、斎藤さんという方がどんな人かご存知ない方のために、簡単に斎藤さんの紹介をしておきましょうその方が話を運ぶうえでよろしいのですから・・・・・・。
斎藤さんは山形県鶴岡の人です。庄内武士の流れをひいていて、中学生のことから武道にはげみ、柔道では麒麟児などと言われ、そのために柔道家になることをすすめられ、一時はその気になったそうです。
しかし、斎藤さんをそうさせなかったのは美術への吸引力の方が強かったからです。中学を卒業すると、家の反対を押し切って東京美校に入り油絵の勉強をつづけられました。
卒業してからは絵よりも、むしろ我が国中世以後の建築だの、造園だのの研究に進み、その設計を本業としました。その傍ら日本と中国の、というよりは東洋の古美術品についても学びました。
戦時中には近衛文麿公の古美術や古文献を保存している財団法人陽明文庫の主任だったこともあり、斎藤さんが管理した美術品の中には国宝に指定されたもの、重要美術品に指定されたもの、未だ指定されてはいないが博物館に展覧されたものなどがたくさんあります。
宋時代の庭を復元して天覧を賜ったこともあります。国立近代美術館の庭園の設計も斎藤さんの仕事の一つです。
美術と同様に斎藤さんが情熱を傾けた仕事は日本犬と日本狼の研究でした。日本の古美術品の中には日本犬がよく出てきます。日本人の祖先と(それは人間の祖先とというのと同じですが)犬との結びつきはいつごろから始まったのであろうか、、、。
斎藤さんは、単に趣味だけで満足できる人ではないのです。とことんまで究めないと気がすまないのです。
斎藤さんは青年のころ健康を損なわれて、犬を飼って散歩させることで健康をとり戻されたことがありました。そのとき飼われたのが日本犬で、日本犬の性格の良さにつくづく惚れこまれていました。
日本人と同様に、この国土が生んだ、そして日本人と共に生き続け、よい友人だった犬を調べてみようと考えられたのです。
斎藤さんの日本犬に対する研究は徹底していました。日本古代犬の骨格、出土地域と年代の調査が続きました。
そうしているうちに古代人の貝塚、住居趾等から犬ではない狼の骨が出てきました。犬と狼と人間との関係について斎藤さんは研究を続けたのです。
日本狼、、、俗にオオカミまたはヤマイヌと昔の人たちに呼ばれていた、、、は明治三十八年かに米人アンダースン氏によって奈良県鷲ガ口で蒐集されたのを最後として日本から姿を消し、今日では絶滅したといわれています。
魚や穀類、野菜を主食とする昔の日本人にとっては、畑の作物を荒す鹿や猪や兎を退治してくれる狼は(南部地方のように馬を放牧している地方を除いては)大変な味方だったわけで、そんなことからあれは神様のお使い姫であるとか、大口の真神(口の大きな神様という意味)とかいわれ、終には"オイヌサマ"と敬って、狐つきを落とすのに効があるなどといって、その頭骨を神棚にまつり大事にしたものです。
まあそのために地方の旧家などを丹念にさがすと保存された狼の頭骨がありました。斎藤さんはそれらを一つ一つ捜し続けて研究されました。なにしろ神様あつかいにしているので、地方の人はあまり外に出したがりません。それをいちいち学問のために必要だといって借りてきて研究するのですから大変です。斎藤さんは全国から何十個という狼の頭骨を集めて研究されました。斎藤さん自身が発見したのだけでも二十数個に達したでしょう。地味な、一般うけしない研究でしたしかも学問の喧ましいこの社会にあって、美校出の彼が主張してもなかなか認めてくれなかったのですが、やがてだんだんとその研究は認められだし「日本狼のことなら斎藤の意見を聞け」と言われるようになったのです。
また斎藤さんは研究室にだけ閉じこもっているような学者ではなく、実践家でした明治以後、日本にどっと入ってきた洋犬に圧倒されて、日本犬が絶滅に瀕したことがあります。大正の末期から昭和の初期にかけてです。今日ではどこにいっても見られる立耳巻尾の日本犬も、その頃は地犬と呼ばれて野良犬あつかいにされ、殆ど姿を消し、東京なのでは全くといってよいほど日本犬を見ることはできませんでした。
このまま放っておいたら、日本人と共に歩んできた日本犬は数年を出ずして絶えてしまう、、、そう心配した斎藤さんは、日本犬を保存する運動を起こそうと決心したのです。
斎藤さんは、まず種犬として残しておきたい優秀犬を発見し、その犬籍簿を作って、それを基として交配繁殖させ、同時に純血を保ってゆこうと考えました。しかし、どこにどういう犬がいるかわからないのに、それを捜し出し、保存するということは言うのは易しいが大変な困難です。
斎藤さんは草鞋がけで全国の僻地山間を歩きまわりました。幸いに日本犬(中型犬、小型犬)は獣猟に使われているので山奥の猟師などはたまに良い犬をもっていたのです。
斎藤さんは百姓家に仮宿したり、絶壁をよじたりしながら甲州の山奥に行ったり、新潟の三面部落なども訪ねました。
しかし、困ったことは、そういったいい犬は持ち主が手放さないことです。。繁殖するにはどうしても、どこか一ヶ処に牡犬と牝犬を集めなければなりませんそれに一人でなん匹も飼育することもできません。
そこでどうしても大衆の力を借りるしかなかったのです。広く世間に、日本犬の優秀さを訴えて、多くの人々に日本犬を見直させ飼育してもらいたい。
斎藤さんの運動に共鳴する人々も少しずつ集まってきました。そこで昭和三年に日本犬保存会を創立し「日本犬」というPR雑誌を発行されたのです。
斎藤さんは宣伝は嫌いでしたが、日本犬熱を煽るためにはやむを得ませんでした。日本犬にまつわるエピソードをいろいろと新聞や雑誌に投稿もしました。その中で特に世人を感動させたのが渋谷の忠犬ハチ公です宣伝といっても、嘘が混っていたのではありません。ハチ公は賞讃さるべき犬で、斎藤さんはハチ公が、秋田から連れてこられたばかりの幼犬のころから知っていてかわいがっていたのです。ですからハチ公の物語りが創作でなしに、かなり正確に世に伝わることができたのです。
日本犬保存はようやく軌道に乗ってきました。そこで斎藤さんは保存会を退きました。斎藤さんの眼はさらに大きく、飼育動物全般の愛護に向けられたのです。
こんど病気のために後任を加藤シヅエ女子に譲られて引退されましたが、十六年もの長い間、日本動物愛護協会の理事長をつとめ、そのほかにも世界動物保護連盟日本代表理事をはじめ、十指に及ぶ動物愛護関係の団体役員をし、日本でというよりも、むしろ外国で知られているといっても過言ではないでしょう。
紹介がやや長くなりましたが、私が最初に斎藤さんに会ったとき、彼は三十九歳だったわけです。家の佇いは寂のある、いい家でした。
そのとき斎藤さんは狼の頭骨を七つ八つそばに置いて研究されていました。私は一時間ぐらいで失礼するつもりだったのが、話に夢中になって五時間ぐらい日本犬と日本狼の話をして、鰻丼を御馳走になって戻りました。
その時から、しばしば斎藤さん宅を訪ねよく記事の種も貰ったものです。
作家になった後でも、私と斎藤さんの交際は続きました。続いたというよりも、より親しくなったの9です。
斎藤さんの日本狼と北海道狼(蝦夷狼ともいい明治二十二年ごろに絶滅しています)との比較研究、日本産の狼と南方系(インド、中国)狼、北方系(シベリア)狼との関係を調べる研究はずっと続けられました。斎藤さんの研究は後では貝塚から出土した犬科動物の骨の一部分から、これが人間に飼われた古代犬であるか、狼であるか、、、、それを計測によって突きとめんとする研究に賭けられたのですこれがわかればいつの時代から犬は人間と結びついたかがわかるからです。出土してくるものは殆どが崩れていて、骨歯の一部分しか形を残していない。だからどうしてもそれを計測することによって、正体を突きとめねばならないのです。
だが、この骨格計測法という学問はこれまであまり発達していず、行われているやり方も粗雑なものでした。それに、そういった指導書がないために、研究者がみんなイロハからやらねばならない煩わしさがあったわけです。
さって、斎藤さんのその研究は完成して、原稿は山とつまれました。だが、あまりにも専門的な研究であるために、どこの出版屋でもひきうけないのです。
私も知っている出版社、、、それも科学書や学問所を出しているところに、いろいろと当たってみました。ですがどこも尻ごみするばかりでした。それも無理からぬことです。どんなに学問的には貴重だったとしても、売ることを商売とする出版社が、こういった特別なものを扱うはずはないのです。
斎藤さんが躰の変調に気づいて昨年二月から慶応病院に入院診療をうけ、癌センターに入院されたのは昨年の五月のことでした。
診断は肺癌ということでした。もちろん病院ではこのことを本人に知らせなかったのですが、奥さんの表情から斎藤さんは悟りました。彼は、たとへ癌で見込みがないとしても決して愕かないし、自分にはぜひやりとげなければならない仕事があるから正確なところを率直に話してもらいたいと主治医にたのんだのです。
医師はしばらく考えたあとで、
「それほどに言われるなら申し上げますが、実はあなたは肺癌だと思います。しかし絶望ではありません。今すぐ手術をしてその部分を切りとってしまえば治らないことはないでしょう。
しかし、それは一日も早い方がいいのです」
と、手術をすすめました。斎藤さんは再びたずねました。
「手術をすれば絶対治るでしょうか?他の部分に転移してることはないでしょうか?もし、手術をしなければあと、どれくらい保ちますか?」
医師は答えました
「手術をすれば治る可能性が大きいというのでして、絶対治るとまでは申せませんね。ただこの際に、絶対といえるものがあるとしたらそれは手術しなければ死ぬということだけです」
「手術をしなければ、あとどれくらい生きられますか?」
「一年半でしょう」
斎藤さんはベッドの上で静かに計算されたのです。
奥さんはどうか手術をして下さい。最後のチャンスに賭けて下さいと泣いて頼まれたそうです。斎藤さんの親しい友人の方々も見守って手術をうけるようにすすめられました。
だが、斎藤さんは聞かなかったのです。ちょうどその頃、私の文学の師である長谷川伸先生が聖路加病院に入院されていて死と懸命に闘っておられ、私は毎日お伺いしていたので、ある一日、先生の小康の日に斎藤さんを見舞いました。自分がでかけて、何とか手術をうけるよう説き伏せよう、そんな気負った気持ちもたしかにありました
斎藤さんは私におう言われたのです。
「手術をしたとしても必ず助かるかどうかわからないのです私の体力もかなり衰弱していますし、手術に耐えられるかどうか・・・・・・。
かりに耐えたとしても、そのためにぶらぶら寝ついたままで、何もできずに生きて呼吸しているだけどいうなら困りますからね。
一年半生きられるのなら、あとの半年は身ううごきならないとしても一年間は静かに仕事をすれば、なんとかやれますから、一年で残しておいた仕事をしたいのです」
「しかし、お子さんも小さいのですから、何としてでも生きることを考えて下さい」
と私はすすめました斎藤さんは
「娘(一人娘で、小学生)はまだわかりませんから、お父さん、死んじゃあ嫌といいますがね」
と斎藤さんは寂しく笑うのです。私は極力手術をすすめて戻りました。
恩師長谷川先生が亡くなられたのは、その月の十一日でした
先生に逝かれた私は、その寂しさから斎藤さんだけでも生かしたいと再び病院を訪ねました。斎藤さんは前よりもやつれていて、
「明日、退院します」
と先に言いました。
「どうして手術をしないのですか?」
私は詰問するような口調で言ったと思います。
「私はね、死ぬことは少しも怖くないのです。ですが、仕事をやり残して死ぬのは怖いのです。私がこれまでにやってきたことの成果を、ちゃんと書き遺してゆきたい。少なくとも犬科動物骨格計測法だけは、どこも対手にしませんから自費出版にでもして図書館や大学、研究所、学会、それに各国の研究機関に配っておきたい。
このあとから勉強する人たちが、私と同じ苦労をしないですむために、是非これだけは遺してゆきたいのですよ。それには一年の月日が私に必要なんです。ですから家内を呼びましてね、決心をうち明けて、満足して死んでゆけるように私のわがままを許してくれと頼みました。
家内もわかってくれました」
斎藤さんの微笑には不動の覚悟が見られたのです。
私は長谷川先生が残された言葉を思いうかべました。
「死ぬことは難しくないのだよ、気をゆるめさえすればいいのだからね。生きることが難しいのだ。
だがね、生きるということは呼吸して、飯を食って、動いているというのじゃないんだね。なにか、世の為になるいい仕事を残す、そしていつまでも人々の心の中に生きている、たとえ名前は知られなくてもいい、役に立つ、人の心をうつものを残すことが"生きる"ということなんだよ」
「私はベッドの中で、なんども死のうと思った。多くの人たちが貴重な時間を裂いて私を見舞いにきてくれる。集めてみればそれは大きな損害だ。多くの人に損害を与えないよう、死のうと思ったが、考え直した。この人たちは義理ではなくて、こころから私に生きろと励まして下さっていることが解ったからだ。天がもし私にさらに生命を貸してくれるならば私は治ったら網走に行って服役者たちが世間の人には知られずに如何に偉大な仕事をしたかを書くつもりでいるよ」
その先生が悲しくも亡くなられて、いかにも心残りだったろうと私は考えました。先生はよく紙碑を建てると申されました。石の碑、銅の碑は毀れる時がきます。しかし、紙に書き残された碑は、消えないでしょう。斎藤さんの悲願もそこにあると思いました。
私は、もう手術のことを言いませんでした。長谷川先生が私に話された、そして私の心に深く彫りこんだ言葉を、私は喋りました。
斎藤さんの瞼がうるみ、きらきらと光るものが耳へと流れました。
「その通りです。あなたは本当にいい先生を持たれて幸福でしたね」
と斎藤さんは言いました。先生もそうだが、友人先輩にもいい人を持った私は倖せです。
斎藤さんのことを私が新聞に書いて数日あと、私は自宅で養生されている斎藤さんを見舞いました。斎藤さんは床の中で犬科動物骨格計測法のゲラに筆をいれていましたが、
「お陰でやっと出版することになりました。ただ一番こまったのは、英仏独露丁の中、露語は苦手でしてね」
と笑われました。それはやつれてはいたが、嬉しそうな笑いでした。それから彼はゲラを置いて、
「私の死期が半年ほど早くなりましたよ。肺だけでなく肝臓などにもできていたのです。それで予定が狂いましてね、この計測法のあと日本狼と古代日本犬の本を書き遺すことにしていましたが、とても全部はできそうもありません。友人からも狼のことだけでも遺していってくれと言われ、そのつもりでいますがね。
私はね、死が迫ってきたとき、狼狽しはしないかと怖れていましたが、一生のうちで昨今ほど、気持ちのよい、楽しい時代はありませんでした。
といいますのはね、あなたが新聞や週刊誌に私のことを書いて下さったので、全然未知の方から、さまざまな激励の手紙だの、漢方薬だの送ってきました。
人々の好意や、やさしさ・・・・・・私は多くの人々の善意の花園の中に横たわっているのです。
そして、いくらかでもお役に立つ仕事を遺して死んでゆける・・・・・・それに家族もなんとか食べてはゆけますから、満足してゆけます、死をこんなに楽しく迎えられるとは思ってもみなかった私はしみじみ幸福な者だと思うのですよ」
斎藤さんは星を見つめるような美しい眼で私を見たのでした。

これで斎藤氏のことがおわかりになったと思います。
どうか、本書を心をこめて読んでいただきたいと希望いたします。




20130621214740.jpg
Calendar
<< June 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930
search this site.
tags
archives
recent comment
others
admin

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71